2022年05月11日

複雑化の教育論

『複雑化の教育論』
【内田樹 東洋館出版社 2022年1月28日 初版第1刷 全252頁 1700円+税】
1 はじめに
本書は2020年の夏から21年の3月までの間、凱風館(筆者の主催する道場・学塾)という処で3回にわたって行われた講演を書籍化したもの。聴講者は10人から15人ほどで, その聴講者との質疑応答、例えば、“教員間のいじめ”“不登校”“教員志望者の減少”なども入っています。そして、これに対する著者の応答が面白い。例をあげれば、オンライン授業のオンデマンド化という欠点を論じるのに、「あくび指南」(落語)から「学園漫画」、「惻隠の心」(孟子)から「天職」(キリスト)まで持ち出されます。著者の“熱”が伝わってきます。さて、『複雑化の教育論』、何が書かれているのでしょうか。
2 「複雑化」というタイトルは?
それは、著者が 「子どもたちがより複雑な生き物になることを支援するのが教育の目的だ」(02頁)と考えるからです。そして、「複雑化」とは、〈昨日とは違う人間になること〉(36頁)だと言います。でも、それって、子どもたちにしたら極めて不安なことですよね。自分が何者であるか分からなくなることですから。だから著者は言います。〈子どもたちに向かって教師が告げるべき最初の言葉は 「あなたは成熟し、複雑化する権利がある。あなたが自分の殻を破って、傷つきやすい状態になった時にも私はあなたを傷つけないし、あなたを傷つけようとするものからあなたを守るために最善を尽くす」〉(51頁)、これが最初に言うべき言葉だと。「複雑化」とは、こうした大人の側からする“宣言”も求めるんですね。
3 なぜ「複雑化」でなければならないのか。
更に、「複雑化」という言葉の使用には他にも理由があると思いました。“あえて”使ったのです。一番の理由は、「成長とはそうしたもの」「進化とは複雑化」という著者の確固たる信念。二つめは、「複雑化」を推し進めないと民主主義は成り立たなくなるという危惧感。どういうことでしょうか。著者は、[「Lose‐Lose‐Lose」の合意形成]という小節で大岡越前の「三方一両損」の話を持ち出します。3両を拾った男とその3両を落とした男が「返す」「いらない」でもめる話。越前が1両足して4両にし、二人の男に2両ずつ分ける、というあのお話です。これはかなり高度な知的操作ですよね。知的な操作というだけでなく調停者たる越前は自分も身銭を切っている、というのが著者の指摘です。民主主義って、落としどころを探る政治制度じゃないですか。単純な二項対立ではどうにもならない。そうした民主主義に耐える人間、「大人」を育てるには、「複雑化の教育論」でなくてはならない。三つめは、「話を簡単にする人が賢い人だ」というイデオロギーに対するアンチテーゼです。著者は、[教育において最優先すべき知的資質]という小節でこのことを言います。その知的資質とは「未決状態に耐える能力」(55頁)のこと。そうした能力いうなれば“頑丈な頭”を作るのに必要なのが「複雑化」。本書のタイトルを「複雑化」としたのは、筆者のこうした思いが込められていると思います。
4 大人・教師に求められるもの
では、「複雑化の教育論」において大人や教師に求められる姿勢といったものは何でしょうか。著者は「機嫌のよいことだ」と言います。これを著者は、「同期現象」という仕方で説明します。先生が機嫌よくしていると生徒もそうなる。著者はその辺の消息を次のように言います。〈シンクロニシティは生物の本能ですから、止めようがない。「気分のよい状態」にいる人間は強い同期力を発揮する。そういうものなんです。気持ちのよい動き、強く、合理的で、早い動きをしているものが傍らにいると、傍らにいる個体はそれに「染まる」〉(249頁)と。 では、「機嫌のよい状態」はどうしたら作ることが出来るのでしょうか。さすがに著者はそこまで言ってはいないのですが、著者の日頃の言動・目標からして“親切”“正直”ではないでしょうか。親切・正直でなかったら、あるいは、親切・正直にする余裕のない教育環境だったら、とても「機嫌のよい状態」は生まれませんから。 さて、本書の80頁にはこんな一文があります。〈教師というのは、医療従事者と同じで「そういう傾向」の人が就く職業〉だと。この表現、この眼力にはドキッとしました。本書は「そういう傾向の人」にはぜひとも読んで頂きたい一冊です。 
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2022年04月25日

日本社会のしくみ 雇用・教育・福祉の歴史社会学

『日本社会のしくみ 雇用・教育・福祉の歴史社会学』
【小熊英二 講談社現代新書 2019年7月第1刷 2021年4月第15刷
全601頁 1300円+税】
1 はじめに
本書の序章にこんな記述が。〈「しくみ」について 学問上の議論に関心のない方は、以下の部分はとばして、第1章に進まれたい〉(9頁)。 小生、「学問上の議論」に特に関心があるわけではないのですが読んでみました。ところがこれが面白かった。社会学という学問がどういうものかが書かれている。例として挙げられたのがあの有名なウェーバー。当時のドイツの農場労働者は、賃金を出来高払いにしても今日の生活に必要な分を稼いだらそれ以上働こうとはしなかった。なぜか。ウェーバーは考えた。資本を蓄積しようとする行動は、未来が安定して続くという信念、そうした特定の「暗黙のルール」が共有された社会からしか生まれないと。そうして書かれたのが 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』。社会学とはこの「暗黙のルール」を研究対象とする学問だというわけです。そして、こうした「暗黙のルール」は「慣習の束」と呼ばれ、社会の「しくみ」と呼ばれる。こんな予備知識があると、本書のタイトルは、政治学そのものと言ってもいい。何か、ちょっとスゴイですね。
2 本書は一度書きなおされた!
あとがきによると、本書の当初の構想は雇用・教育・社会保障・政党・税制・地域社会・社会運動などを包括的に論じるものだったそうです。〈ところが、雇用慣行について調べているうちに、これが全体を規定していることが、しだいに見えてきた。そこで、最初に書いた草稿はすべて破棄し、雇用慣行の歴史に比重を置いて、全体を書き直すことになった〉(585頁)というのです。最初の草稿を全部破棄してしまうというのもスゴイですね。この書き直しによって、教育や社会保障の記述が少なくなり、政党・税制・地方自治については割愛されることになった。でもですね、「雇用慣行が全体を規定している」、このテーゼは貴重です。そして、この「雇用慣行」というものが正に「慣習の束」なのです。
3 他の国のこと
第2章のタイトルは、「日本の働き方、世界の働き方」です。この章では、他の国の働き方が概観されています。この概観は本邦の雇用慣行を理解する上でとても助けになります。ところで、本書には各章の初めに「要点」というまとめがあります。どんなまとめなのか第2章の要点をみてみると〈・ヨーロッパやアメリカをはじめ、日本以外では企業は三層構造をなし、企業横断的に採用や昇進が行われる。〉〈・そこには「職務の平等」の志向はあるが、「社員の平等」はない。〉〈・そこでは、企業横断的な職務の専門能力や、大学院の学位があった方が有利になる。それに対し、日本では学位よりも「社内のがんばり」が評価される。〉〈・日本では、大学名の競争になり、修士号や博士号の取得のインセンティブが働かない。その結果、相対的に日本は「低学歴化」しつつある。〉(96頁)、とこんな具合です。ちょっとびっくりですね。日本の雇用慣行が、「低学歴化」を招いているとは!
4 全601頁の意味するもの
本書は小熊さんの本らしく分厚い。これが200頁ぐらいの新書だったらどうだったろうかと考えてみました。そりゃ、読むのは楽でしょうね。でも、「納得感」が違う気がする。例えば「非正規雇用」を例にとって見ます。200頁だったら、小生など、「企業の賃金コストの削減も来るところまで来た、それが非正規雇用だ」という程度の納得感で終わりそうです。けれども、600頁だとずいぶん違う。こんなことが書かれています。賃金コストの増大、その原因となった年功による昇進や昇給は、元来は経済的コストに左右されない官吏の慣行だった。そうしたことは、高度成長期のような例外的時期を除けば民間企業では困難なことだった。それでもなお、長期雇用と年功賃金を続けようとすれば、その適用対象をコアな部分に限定するしかなかった。そのための方法が、非正規雇用(や人事考課による厳選、出向、女性)という外部を作り出すことだった(528頁から)。200頁だとここまでの理解はできない。 「納得感」にも、厚い納得感と薄い納得感がある、本書はそんなことを思いながら読んだ一冊でした。
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2022年03月18日

『武道論 これからの心身の構え』

『武道論 これからの心身の構え』
【内田樹 河出書房新社 2021年7月初版発行 全243頁 1980円(税込)】

1 はじめに
本書のタイトルですが、「武道論」 「これからの心身の構え」とありますよね。初めから何ですけど、この二つの関係ってどう捉えたらいいんでしょう? 思ったのですが、まず「武道論」があって、次に「これからの心身の構え」が出てくるんじゃない。本書は武道論という名のもと“普遍的な原理”を論じている。だから「武道論」即「これからの心身の構え」になる。 僕は本書をそんな風に読みました。
2 「科学的」とは何か、を考える。
(1)  本書の69頁にこんな話が載っています。薩摩示現流の流祖に東郷重位(しげかた)という人がいた。あるとき、息子が自分の剣の腕前を友人に誇った。これを聞き咎めた重位が「斬るとはこういうことだ」と言いざま脇差で目の前にあった碁盤を両断し、畳を両断し、根太まで切り下して見せた、という逸話です。こうした話を信じない人っていますよね。でも、鉄製の甲冑を斬ったとかそれに類する話はいっぱい残っている。本当の話なんです。問題はこれをどう考えるか、ですよね。一つの考え方として、普段、人間は本来持っている筋力の100分の1、1000分の1も使っていない、というのがありますよね。そして、こうした考え方を「科学的」だという。でもですね、これって本当に「科学的」なんでしょうか。
(2)  著者がどう言っているかを見てみます。〈解剖学的にも生理学的にも人間には出せるはずのない力を発動する技術がある。良導体となって野生の力を人間の世界に発現する技術がある。それが武芸である。今のところ私はそのように理解している〉(70頁)。 でも待ってね。内田氏はどうして、「筋力1000分の1」説をとらないのか。これが僕の疑問でした。
(3)  実感に反するからだと思います。氏はこんなことを言っています。〈(剣の)構えが決まると足裏から大きな力が身体の中に流れ込んで来て、それが刀身を通って、剣尖からほとばしり出るような感じがすることがある。そのとき人間は剣を制御する「主体」ではもはやなく、ある野生の力の通り道になっている〉(70頁)と。考えてみると、「筋力1000分の1」説って、既存の知識・過去の知見ですよね。これって「説明」じゃないですか。「科学」って、探求であって説明じゃないですよね。新しい地平を開いてこそ科学。先ほどの一文は、内田氏の実感に基づく「探求」そのものです。 「科学」なんです。
3  「存在しなかった災厄」
本書の【リスクとデインジャー】という論考にこんな一文があります。福島の原発事故を論じた後の記述。〈私たち人類は久しく「あと一歩のところで破局を迎えたはずの事態」を繰り返し回避したことによって今日まで生き延びてきた。むろん、「存在しなかった災厄」について、たしかなことは誰にも言えない。けれども、「存在しなかった災厄は、それを無意識のうちに感知して、それを回避する策を講じた人がいたせいで存在しなかった」という仮定はあきらかに人間的能力の向上に資する〉(137頁)。 
4 「なぜ起こらなかったか」学の構想 
思ったのですが、「なぜ起こったか」は学問として成立していますよね。でも、「なぜ起こらなかったか」は学問として成立していない。災厄は起こっていないのだから主題を欠くというのでしょう。でも早計ではないか。本書には【「存在しないもの」たちとの交渉】【「存在するもの」と「存在しないもの」について】という論考がある。そこでいう「存在しないもの」とは、私の理解では「確かに存在するが存在しないとされてきたもの」 “名づけのないエネルギー・法則”のこと。これらが私たちの生活を十重二十重に取巻いている。そして、そうしたエネルギーや法則が負に働く場合がある。その時、賢人や無名の人がそれらを無効化してきた。その結果、かろうじて私たちの安全が守られてきたと言える。「負のエネルギー」「負の法則」の滲出をいかに防ぐか。本書には「なぜ起こらなかったか」学に向けての構想がある。少なくともそうしたものへの仮定がある。 「なぜ起こったか」学では“後手に回る”こと必定。 武道家として、内田さんにはそのような惟いがあると思うが、違うだろか。
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