2025年04月22日

『資本主義の次に来る世界』

『資本主義の次に来る世界』
【ジェイソン・ヒッケル 野中香方子(きょうこ・訳) 東洋経済新報社
2023年5月4日発行 本文291頁 2400円+税】
1 はじめに
野菜の値段が高い。秋刀魚は庶民の魚でなくなった。大規模な山火事の発生。これらは気候変動が原因だとされます。ところで、SDGs(持続可能な開発目標)ってありますよね。国連が掲げ、各国政府も大企業も推進。この行動指針で気候変動は止められるのか。いまや問題はなべてCO2にあるとされます。しかし、問題の本質を「CO2」に還元することは正しいのか。本書は次のように言います。〈社会が石油燃料に依存していることと、化石燃料企業の異常な行動は、より深刻な問題の症状にすぎない。その問題とは、過去数世紀にわたって多かれ少なかれ地球全体を支配するようになった経済システム、資本主義である〉(26頁)と。
2 資本の鉄則(90頁〜)
資本主義とは何かについて本書はこんな例をあげます。ひとつは昔ながらの地元のレストラン。もうひとつはアマゾンなどの大企業。僕たちは二つを同じ資本主義と思いがちだ。しかし、地元のレストランは資本主義ではないと著者はいう。なぜなら「利益」の概念が違う。地元のレストランの利益は、家族を食べさせ、従業員に給料を払い、老後の貯えができれば良い。すなわち、その利益は特定のニーズを満たすという「使用価値」に基づく。しかし、アマゾンの利益はジェフ・ベゾスの食卓を豪華にすれば終わりというものではない。ここで追及される利益は「交換価値」と呼ばれるもの。交換価値には使用価値のようなこれで満足という終わりがない。終わりがないということは、自己増殖が運命づけられるということ。すなわち、ここで利益は「資本」となる。だから「資本主義」なのだ。資本主義は利益が利益を生むような永久運動のシステムだ。これは企業にとって強力なプレッシャーになる。利益をあげ続けるためには成長が不可欠。だから「成長」は資本の鉄則となり、「成長主義」が資本主義の本質となる。
3 「脱成長」という考え方
「成長」という言葉はよい響きを持っていますよね。だから、経済の成長にも無批判になりがちだ。けれど、経済の成長には「資源」が必要。しかし、地球上の資源は有限。限りない成長は不可能なのだ。ここに、「脱成長」といいう考え方が生じる。「脱成長」と言っても成長をやめることではない。成長させるべき部門と根本的に縮小すべき部門を見極めること、また、利益を最大化するために製品の寿命をあえて短くするような、部品をなくし修理不能とするような、生産様式をやめることだ。「脱成長」とは、〈経済と生物界とのバランスを取り戻すために、安全・公正・公平な方法で、エネルギーと資源の過剰消費を削減することを意味する〉(37頁)。「資本主義の次に来る世界」のしくみを想像するとき、そこに「脱成長」「定常経済」という概念が生まれる。
4 本当にできるの?
斎藤幸平氏の『人新生の「資本論」』は、〈SDGsは「大衆のアヘン」である!〉から始まる。これに猛反発した識者もいた。また、資本主義の終わりを想像することは世界の終わりを想像することより困難だとも言われる。何故、反発が生まれ、想像不能に陥るのだろうか。本書のすぐれた面はその問題を哲学から解き明かした点だ。〈デカルトの敗北とスピノザの勝利〉(267頁)はそのまとめ。もう一つ、「資本主義の次に来る社会」への想像を遮断するものに「人間観」がある。人間は利己的で、自分の利益を最大化しようとするのがその本質とする人間観。本書はこの点についても〈資本主義は人間の本質とは何の関係もない〉ことを明らかにする(48頁以下)。科学の発達やイノベーションも資本主義の恩恵と思いがちだがそうではない(僕はそう思っていた)。山中教授のiPS細胞の作製やダビンチ手術が金もうけのための研究成果だなどとは到底言えない。資本主義は並外れた物質的生産性をもたらした。しかし、それで人間が豊かになったかといえばそうではない。本書の帯の惹句は、〈「少ない方が豊か」である〉というもの。「少ない方」=「地球から多くを収奪しない」方が人間にとって「豊か」なのだ。
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2025年01月08日

『私家版・ユダヤ文化論』

『私家版・ユダヤ文化論』
【内田樹 文春新書 2006年7月第1刷 2024年9月第23刷 全241頁 900円+税】

1 はじめに
ユダヤ人って頭が良いですよね。マルクス、フロイト、アインシュタイン、ノーベル賞受賞者をみても他を圧倒している。驚いたことにスティーブン・スピルバーグもボブ・ディランもユダヤ人だという。何というか、みんなイノベーションを起こした人たちばかり。これまでとはそもそも頭の使い方が違っている。そうであるなら、ユダヤ人は非ユダヤ人から尊敬と称賛をもって迎えられる存在であるはず。ところが、現実は真逆でユダヤ人の歴史は嫌悪と迫害、反ユダヤのそれだった。本書はその両者の「関係性」の根源に迫ろうと書かれたもの(とおぼしい)。著者のユダヤ研究は30年に及ぶ。その30年が、「私の・ユダヤ文化論」となった。興味深々の一冊だとはおもいませんか。
2 “神”とは?
いきなり“神”の話になって恐縮です。けれど、むこうの人の知的活動の始まりは、“神とは?”から始まるのではないか。だから、この大本を押さえておく必要がある。即ち、ユダヤ人とその他のヨーロッパ人とでは神に対する捉え方が違うのではないか。僕のユダヤの神に対する理解は、「人が何をしても救われない」(『100分de名著旧約聖書』から)、すごく厳しい神、というもの。著者はエマニュエル・レヴィナス(1906〜1995)の教えとして次のように言う。〈隣人を歓待すれば主に祝福され、隣人を苦しめれば主に呪われる、というような「勧善懲悪」のメカニズムのうちに人間はいるわけではない。もし、そうだとすれば、決定権は100パーセント人間に属し、神には何の権限も残されていないことになる。[・・・] 神は人間によって操縦可能だということになる〉220頁。僕はユダヤの神の理不尽さに比べたらキリスト出現以降の神は、何故か“普通の人間の考え方”侵入して操作可能な存在になった、然し、神が人間を創造したのなら、人間にとって神は理解不能で、「この世に神はいないのか」と叫ばせるものでなくてはならない、それ程厳しいものを要求する、そう思うんですよね。何か、凄いことを言っちゃったけど。
3 レヴィナスのいうユダヤの“神”
レヴィナスはユダヤ人でタルムード(ユダヤ教の聖典)の研究者です。著者はレヴィナスを次のように紹介。〈ユダヤ人は非ユダヤ人よりも世界の不幸について多くの責任を引き受けなければならない。神はそのためにユダヤ人を選ばれたからである〉187頁。そうすると、ユダヤの神は「救い主」というより、その責任を果たさせるために人間の成熟をとことん要求する存在になる。著者は次のように言います。〈「ユダヤ的知性」は彼らの神のこの苛烈で理不尽な要求と関係がある。この不条理を引き受け、それを「呑み込む」ために彼らはある種の知的成熟を余儀なくされたからである〉(188頁)と。僕はこれがユダヤ人の頭の良さの理由だと思う。なぜなら、最初に書いたように、知的活動の始まりは、「神とは何か」、即ち神の要求するものをキャッチするところから始ると思うからです。さて、この「選ばれしものの有責性」をいうためには著者のいう、「始原の遅れ」「遅れの咎」を説明する必要がある。しかし、残念ながら今回は紙幅がなく省略します。
4 ユダヤ人は何故嫌悪されるか。
著者はこの問題に対して、〈私に唯一納得のいく答え〉〈それは「反ユダヤ主義者はユダヤ人をあまりに激しく欲望していたから」というものである〉(212頁)といいます。そして、〈反ユダヤ主義者がユダヤ人を欲望するのは、ユダヤ人が人間になしうる限りもっとも効率的な知性の使い方を知っていると信じているからである〉(218頁)とします。著者がこう述べるのはフロイトの「投射」論の解釈をベースにしています。しかし、私にはうまく説明できない。ためにレベルダウンしますが、それは俚諺にいう「可愛さ余って憎さ百倍」と同様の機制ではないか。激しい特別の憎しみは強い欲望(可愛さ)を梃子にして増大する。従って、もし、ユダヤ人が歴史的に凡庸な存在であったなら、ユダヤ人は激しく欲望されることもなく、反ユダヤという特別なイデオロギーは生じなかった。そんな風に考えたのですがどうでしょうか。

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2024年10月01日

『 勇 気 論 』

『 勇 気 論 』  【内田樹 光文社 2024年5月30日 初版第1刷 全288頁 1700円+税】

1 はじめに
この本の企画は光文社の編集者 古谷俊勝(ふるたにとしかつ)さんとの、「勇気について一冊書く」 という話から始まりました。古谷さんと著者との付き合いは長く、著者がまだ神戸女学院大学に勤めていたころから。そのころ著者は、『現代思想のパフォーマンス』(共著者 難波江和英 松柏社 2000年4月初版 2800円)を出したのですが値段も高く余り売れなかった。それを光文社新書として出版したのが古谷氏。だから『現代思想のパフォーマンス』 は今でも読むことができる。そうした長くて密なご関係なので、古谷氏もご自身の心のモヤモヤを著者に話すことができる。そして、それにこたえる形(往復書簡)で出来あがったのが本書。さて、何が書かれているのか。
2 本書は内田思想のエッセンス
「勇気」がどうして論題になったのか。それは著者がある所で、「今の日本人に一番足りないものは何ですか?」と訊かれて、「勇気じゃないかな」と答えたのが切っ掛け。ところで、著者のモットーが「正直・親切・愉快」であることはご存じだろうか。このモットーには出典があって中村天風という方の「今日の誓い」のなかのフレーズ。全文だと、「今日一日、怒らず、恐れず、悲しまず、正直、親切、愉快に。力と勇気と信念をもって、自己の人生に対する責務を果たし、常に平和と愛とを失わざる誠の人間として生きることを誓います」というもの。ということで全文には、「勇気」が入っていますよね。だから、「正直・親切・愉快」につづくものとして「勇気」がある。では著者が中村天風氏を知ったのは何時か。合気道を始めたころと推測できるので、おそらく五十有余年、「正直・親切・愉快・勇気」を座右の銘にしてきたと思しい。そうすると、「正直・親切・愉快・勇気」は著者の”思想の核”になっているのではないか。・・・ということで、本書には、「勇気」だけでなく、「正直」と「親切」についても、たっぷりと書かれています。本書を「内田思想のエッセンス」と言ったのはそうした意味からです。
3 僕の個人的な感想
著者は最終的に何を考えているのかと思いました。おそらく、「これから人が集団として生きのびるためには何が必要か?」ではないのか。人類はこれまで幾度となく危機・難問に直面し、これを「知性」の力で乗り越えてきた。では、その知性を活性化するものは何か。著者は、本書の小見出しで、〈知性は、問いにふれることで活性化する〉(106頁)と書いています。そうすると、次に課題となるのは、正しく「問い」にふれるためには何が必要かということになりますよね。そのためには、先ずもって「正直」でなければならない。即ち、自己の思うところをごまかしてはいけない。自己の思うところをごまかさないためには「勇気」が必要だ。そして、「正直」であり、「勇気」を持つためには人に「親切」でなければならない。なぜなら、不人情な人が正直、勇敢であるとは考えづらいことだから。そして、そうしたものをゆったりと心に据え置くためには「愉快」であることが望ましい。
4 おわりに
著者は本書の最初の方で、〈勇気とは「孤立に耐える」ための資質である〉と書いています。そして、あとがきで、〈勘違いして欲しくないのですが、「孤立に耐える」というのは、ただ「我慢する」という意味ではありません。もっと向日的な、もっと希望に満ちたものです〉と指摘。そして、60年代の終わりに学生たちに強い情緒的反応を起こした、「連帯を求めて孤立を恐れず」というスローガンを紹介します。世界的に学生運動が盛んだったあの頃の、階層的にはまだエリートだった「学生」の、メンタリティを表現していると思います。1950年の生れの著者もまた、こうしたメンタリティの持主だった。さて、話は変わるのですが、著者には根強い愛読者がいて僕もその一人なのですが、なぜ、著者に魅かれるのか。それは書かれたものと著者の人柄がつよく結びついている、そうしたところに理由があるのではないか。本書は、著者のそうした人柄をあらわしてか、その半生の蓄積から具体例をひき、「是非とも分かって欲しい」と噛んで含める書き方がなされている。 とても面白く、今季、推奨の一冊です。

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posted by たっちゃん at 16:58| Comment(0) | 日記