2021年06月02日

『時代を撃つ ノンフィクション100』

『時代を撃つ ノンフィクション100』
【佐高 信 岩波新書 2021年3月19日第1刷 820円+税】
1 はじめに
本書は100冊のノンフィクションを取り上げます。但し、梗概を紹介するものではない。佐高氏は「おわりに」で次のように言います。〈日本は「会社国家」でありながら、会社とそこで働く人間を描いたノンフィクションは少ない。この100冊の特徴は、会社国家のタブーに挑んだ作品を選んでいることにもある。また、アウトローも少なからず登場する。無法者たちから社会を見たら、また、違った景色が見えるのではないかと思うからである〉と。そうです、まさに多くの事柄について“違った景色”を見せてくれるのが本書。紙幅の許す限り“本書から触発されて思ったこと・考えたこと”を書いてみたいと思います。
2 36‐『知事抹殺』 佐藤栄佐久著(平凡社2009年)
(1)著者は福島県知事の職にあった人。副題が「つくられた福島県汚職事件」。自民党の参議院議員を経験した現職知事が国策逮捕されたのは、余りに安全を無視した国の原子力(発電)政策に「待った」をかけたから。しかし、大手メディアはそうした背景を報道することはなかった。そして、2011年3月11日、東電福島第一原発の大事故が起こった。これはどういうことか。
(2)私たちはマスメディアから情報を得ていますよね。しかし、それについて個々的に対価を払うことはない。だからマスメディアの情報は基本的にタダだと感じている。しかし、違いますよね。あの大量の金太郎飴的情報をつくるためには莫大なお金が必要なはず。つまり、不可視のところ(電気事業連合会)がそれを出している。では、これに抗して“違った景色”を見るにはどうしたら良いのか。そうです、私たちも身銭を切って背景事情を知る必要がある。「民主主義と身銭」、そんなことを思いました。
3 58‐『ドキュメント 昭和天皇』 田中伸尚著(緑風出版1984‐93年)
(1)以下でふれるのは全八巻に及ぶ表題の労作ではありません。同じ著者による『合祀はいやです』(樹花社)のヒロイン中谷康子のこと。彼女はクリスチャンのごく平凡な主婦だった。しかし、事故死した夫を護国神社に祀ると言われ、それを拒否したところから彼女の闘いが始まる。いわゆる自衛官合祀拒否訴訟と言われるもの。佐高氏はこれに紙幅の半分を割く。何が重要なのか。
(2)触発されて考えたことは、信仰の自由というものが内心に止まるものではないということ。仮に内心に止まるものなら彼女は「合祀」されても一向にかまわなかったと思えるからです。だってそうでしょう。合祀されようがされまいが、彼女の内なる心においてキリスト者としての信仰は守られるのだから。ここに明治憲法以降現在に至るまで延々と続く権力のまやかしがある。すべからく内心の自由は“表出の自由”を含むものでなくてはならない、そんなことを考えました。
4 66‐『医者 井戸を掘る』 中村 哲著(石風社2001年)
(1)佐高氏は中村哲氏を次のように評します。〈中村はクリスチャンだが、儒教をベースとした儒教クリスチャンである〉〈私は中村のことを、“歩く日本国憲法”と言っていた〉と。この中村氏に対する佐高氏の評し方はすこぶる私の興味をそそるものでした。
(2)それは、「儒教」と「キリスト教」と「日本国憲法」が中村氏において血肉化されていた、そう言うに等しいと思えたからです。「日本国憲法」はその“生まれ”の故をもって「改正」が主張されてきた。では、日本国民と日本国憲法を一つにするものは存在しないのだろうか。私は中村氏が儒教とキリスト教を架橋したように日本特有の倫理と外来の日本国憲法を架橋できるのではないかと前々から考えていました。日本特有の倫理は儒教であっても武士道であっても浄土真宗であっても良いと思う。「習合」は、この列島に暮らす我々の得意技なのだから。そして、その生きた証が中村氏だと思ったのです
5 おわりに
本書は大きく 「T現代に向き合う」「Uメディアへの問いかけ」「V歴史を掘り下げる」の各章から成り、各々は幾つかの節に分かれます。読み方によれば現代(一部 近代を含む)の歴史書にもなる。1945年生まれの佐高氏ならではのもの。私は大いにインスパイアされました。ぜひご一読ください。
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『日本の無思想』

『日本の無思想』
【加藤典洋(1948〜2019) 平凡社新書 1999年5月初版第1刷 740円+税】
1 はじめに
  著者加藤さんのご本を読むのは初めてです。名古屋の今池にある「ウニタ書店」で古本扱いになっていたのを150円で買いました。中味を見ずに買ったのですが読んでみて驚きました。テーマが壮大なんですね。本書の「はじめに」にはこうあります。〈こうした戦後、日本の近代、近代全般、日本の古代にかかわる考察を通じて、現在日本の戦後の思想風土の可能性を探ってみようというのが、現時点での目標です〉と。どういうことでしょう。本書に一貫して書かれているのは、「公(公共性)」と「私(私的なもの)」の関係性です。この関係性を論ずるのに、ハンナ・アーレントをとっかかりにして、ルソー、ヘーゲルの考え方が紹介され、それらが演繹されてマルクス、福沢諭吉、カントに及びます。理解不足はご宥恕いただくとして、早速「案内」を始めたいと思います。
2 「公共(性)」を如何に築くか。
「公共(性)」を如何に築くか、というのが近代以来の私たちの課題ですよね。加藤さんは 「公共(性)」」は「私的なもの(私利私欲・私情)」の上に築かれなければならないと言います。ここを読んだとき、正直「えっ!」と思いました。今、私たちは資本主義の世の中に生きていますよね。資本主義の世の中で「公共」を築くには「私利私欲」を土台にすべきだ、というのですから。加藤さんのご主張を理解するためには、段階を踏む必要がある。項を改めて考えてみたいと思います。
3 原理的に可能か。何故そうでなくてはならないのか。
(1) まず、そんなことが原理的に可能かが問題になりますよね。「公」と「私」を一般に考えられているように並立的かつ対立的に捉えたら、原理的に不可能ですよね。だって両者を分断してしまう訳ですから。加藤さんはそうした分断を「近代の嘘」として排斥します。では、どう捉えるべきか。ポイントは社会契約説。ホッブスは人間の自然状態を「万人の万人に対する闘争」と捉えた。つまり、私利私欲の戦いですよね。それでは人間社会は成り立たない。そこから「公共(性)」という概念が生まれた。つまり、「公共(性)」は「私利私欲」から生成した。それと、私利私欲(物欲)は他人に評価されなければ満足できないという性格、つまり、他人との関係性を持っている(ヘーゲル)。だから、「私」によって「公」を築くことは原理的に可能だと言える(加藤さんの結論は“原理的帰結”か?)。では、そうでなくてはならないという理由は何か。「私利私欲」の否定ではどうしてだめなのか。
(2) このご本の178頁には次のように書かれています。〈私利私欲を否定する公共性は、必ず「社会的なもの」に転換します。でなければ、ほどなくこの私利私欲に打倒される〉と。つまり、私利私欲を否定すると、「社会的なもの」が出てくる。これは歴史的事実ですよね。そして、この現象は一見すると良いことのようです。心情的にも納得してしまいます。しかし、「社会性なもの」は暴走する。全体主義、ナチズムがそれです。だから、あくまでも「私」が土台だ、というのが僕の理解です。
4 具体的にはどういうことか。
この本で、『戦友』(軍歌1905年=明治38)の一節、「軍律厳しき中なれど これが見捨てて置かりょうか しっかりせよと抱き起し 仮包帯も弾の中」が、「私(私情)」の例として紹介されています。この場合、「軍律」は「公」、「見捨ててはおけない」は「私(私情)」ですよね。この「私(私情)」の中に新しい「公」はないのでしょうか。この私情を「私」として捨て去ったら新しい「公」は築けない。どう考えるべきか。かつては、戦友を見捨てて突撃することが「公」だった。しかし、新しい「公」は、「戦場において負傷した兵は絶対に見捨てない」 「人命尊重」 「戦争は違法」というものでなくてはならない。「私情」の中にそうした「公」が築かれる、そういうことではないか。日露戦争時の戦闘を題材にしたこの歌はその後も歌い継がれたと言います。加藤さんは大略次のようにおっしゃる。「現実の公共性は中途半端なもの。でも私的なものと結びついている。人は自分の公共性が私的存在にすぎないことを強く自覚する限りで、この中途半端な公共性に含まれる公的性格を、生きることになる」と(245頁)。
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2021年03月18日

『 知 事 の 真 贋 』

『 知 事 の 真 贋 』
 【片山善博 文春新書 2020年11月20日第1刷発行 800円+税】
1 はじめに
新型コロナが生活を大きく変えています。不便をこえて死活問題になっている。こうした現状は先の戦争以来ではないか。自治体のあり様がするどく問われています。まさに知事の真贋が試される時代状況です。私たちはどういう視点から私たちの首長を選んだらよいのか。本書を手にしたのはそんな動機からでした。例によって、印象深かった点、インスパイア(啓発)されたことを書きたいと思います。
2 法治国家について
(1) 「一斉休校」の要請
2020年2月27日、安倍首相(当時)は、全国すべての小・中・高、特別支援学校について臨時休校を要請しました。しかし、この「要請」の法的根拠が問われることはなかった。片山さんは〈何の権限もない首相が要請し、何の権限もない知事や市長が事実上の決定をする。もう完全に無法地帯でした〉と書いています。最初は「そこまで言うか」と思いましたが読み進むうちに変わりました。公立学校の休校について権限を持つのは教育委員会。教育委員会が休校を検討していたら子供たちの“学びへの影響”が議論されたでしょう。外国の研究結果では教員のストライキなどで一定期間教育を受けられなかった子供は生涯所得にも大きな差が出たりするというというのです。法的根拠に基づかない休校は、こうした重要論点をすっ飛ばしたことになる。法治国家であることの否定は、この“すっ飛ばし”を肯定してしまう危険をはらんでいる。片山さんが〈将来、禍根を残すのではないか〉というのも宜なるかなです。
(2) 「法治国家」の本当の意味合い
では、「法治国家」であることはどうして重要なのか。指摘されるのは「お上意識」、純朴な人々が為政者に従ってくれるという日本特有の風土。片山さんはおおよそ次のように言います。「しかし、それでは長続きしない。追い詰められたとき、人々は“どこまで我慢するんだ”という疑念をもつ。“根拠があるのか、勝手に言っているだけじゃないか”と思うようになる。ついには“もう従わない”という限界が来る。こうなったら感染症対策は崩壊。だから“異論反論はあるけれど、みんなで我慢しようと決めたのだから”という筋道が大切、その方が〈踏ん張る力〉が強いはずだ、これが〈法治国家〉の本当の意味合いだ」と。
(3) 信頼のみなもと
そうです。「法治国家」という理念は、国家の基盤であり、国家に対する信頼のみなもとだったんですね。例えば、あの陰鬱極まりない“自粛警察”は、「法治国家」の理念が失われたところに勢いを得て出現するものだ、と私は思いました。
3 思ったこと
知事の真贋を見分ける基準として、住民に対し十分な説明をすることができるか、があると思いました。和歌山県の仁坂知事は、記者会見で、〈質問が出尽くすまで、エンドレスで丁寧に答えてい〉たと本書で紹介されています。知事自身が、よく勉強して根拠を示すことができ、実行部隊となる組織をしっかりと把握し、関係する市町村との連絡も十全でなければ、〈エンドレスで丁寧に答え〉ることなどできない。「知事の説明を早く聞きたい」、と思うかどうか、真贋は自ずと明らかになると思います。
4 読後の感想
本書からはいろいろなことを知りました。国と地方の関係を対等のものとした「地方分権改革一括法」のこと、いわゆる「特措法」24条が組織法であること、同法45条が要請や指示の根拠条文であること、或いは「大阪都構想」の訳の分からなさ等々いろいろなことです。そして、一番分かったことは、私たちは、これからも新しい感染症や未曽有の災害に見舞われる、その時、○○県民だったから命が助かった(助からなかった)、ということが起こるということ。殺伐たる話になってしまいましたが、「知事の真贋」「地方自治」とは、そういうものだったのか、というのが読後の率直な感想です。
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posted by たっちゃん at 00:00| Comment(0) | 日記