2023年05月09日

『夜明け前(が一番暗い)』

『夜明け前(が一番暗い)』
【内田樹 朝日新聞出版 2023年2月28日 第1刷 全221頁 1600円+税】

1 はじめに
本書は「AERA」(2018年〜2022年)に掲載された内田樹氏の時評的エッセーを一冊の本にまとめたもの。氏は2月21日の公式ツイートで本書をこんな風に紹介。〈『夜明け前(が一番暗い)』〉が本日発売になりました。AERAの巻頭コラムをまとめて103本です。全部字数も文体も同じなので、読みだすと「やめられないとまらない」エビセン状態になります〉と。でもですね、頁をめくる手がはたと止まるときがある、というのは、エッセーとは言いながら100本を超えるものを一気読みすると、そこに書き手の「流儀」といったものが見えてくるからです。そこで今回は、そうして垣間見た内田さんの「流儀」といったものを僕流に解釈して書いてみたいと思います。以下、【 】はコラムの見出し。
2 仲間とともにあるのが人間
内田さんという人は面白い人で何をするにも仲間と一緒です。氏は凱風館という道場兼学塾を主宰されているのですが、ここには、居合・杖道・禊・滝行などの「部活」がある。そして、【72歳「必死の初心者」】では、さらに「乗馬部」を立ち上げたとある。それのみか、凱風館の門人が入る合同墓まで計画し 【死者を弔うのも集団の事業】、現に作ってしまわれた【供養の主体】。勿論、ご自身もそこに入られる。氏は言います。〈生物学的に死んだ後も、人は「死者」というステータスにおいて、しばらくの間生者たちに「存在するとは別の仕方で」影響を与え続ける〉【人類学的真理】と。内田さんにとって、“仲間とともにある”ということはのっぴきならない人間の本質的な属性なのだ。
3 内田樹の流儀
“仲間とともにあるのが人間”、こんな命題を立てて読んだのが、【「文明」と「野蛮」の岐路に立つ】という一稿。論はアメリカの国民的分断の根深さから、オルテガ・イ・ガセットの言葉へと進みます。オルテガ、あの『大衆の反逆』を書いたスペインの哲学者ですよね。内田さんはオルテガをこのように紹介。〈文明的であるというのは、「敵と、それどころか、弱い敵と共存する決意」を宣言することである。理解も共感もしがたい不愉快な隣人との共生に耐えるということである〉(170頁)と。でもですね、そんなことってできるんでしょうか。内田さんはできると考えている。キーワードになるのが氏のよく言われる「原理」と「程度」。言うならば、敵と味方を峻別するものは原理、しかし、もう一つ「程度」がある。「程度」において人間は共生できるのだと。例を挙げるなら、嫌なやつと抱き合うことはできない。でも、握手ならできるかもしれない。握手ができなくても会釈ならできるかもしれない、会釈ができなくても・・・ならできるかもしれない、すなわち、「共生に耐える」と。下手なたとえですがそういうことです。「原理」なのか、「程度」なのか。これを分けて考えるのが内田樹の流儀だと思います。
4 「程度」を語るには「やさしい言葉」
内田さんのものを読むと、「原理」「原理」で押してこないんです。内容は高度、しかし、問題解決のキーワードとなる言葉は「やさしい」。例えば、「正直」「親切」「愉快」「常識」。【デカルトが今の日本を見たら・・・】 では、デカルトに、〈「分別」が足りぬと評することだろう〉(54頁)などと言わせている。「分別」もやさしい日常語ですよね。では、内田さんはどうして「やさしい」言葉を大切にするのか。ここから先は僕の推論です。先ず、「仲間とともにある」のが人間の属性。では、「仲間」であるためには何が必要か。「原理」でしょうか。でも、原理だけだと仲間割れを起こす。最悪、殺し合いになる。なぜなら、「原理」には物事を峻別する力はあっても、和解・譲歩・調和させる力はないから。和解させる力は「程度」の方にこそある。だから仲間であるためには、「程度」がどうしても必要になる。では、「程度」を語るにふさわしい言葉は何か。「原理」を語るだけなら鋭い言葉・難解な語彙でかまわない。しかし、「程度」を語るには、誰でもが理解でき、「それだったら俺にもできそうだ」、という言葉が良い。だから内田さんはキーワードとして「やさしい言葉」を語る。 と、そんな風に考えたのですが、皆さんはどう思われるでしょうか。

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2023年04月05日

『武器としての国際人権 日本の貧困・報道・差別』

『武器としての国際人権 日本の貧困・報道・差別』
【藤田早苗 集英社新書 2022年12月21日第1刷 全317頁 1000円+税】

1 はじめに
2001年に情報公開法が施行されました。テレビの報道番組で黒塗りの文書が映し出されたのを見られた方も多いと思います。情報公開法の正式名称は「行政機関の保有する情報の公開に関する法律」、国民の知る権利のためにあるとされます。「知る権利」すなわち人権です。さて、皆さん、あの黒塗り文書を見られて、国民の人権(知る権利)が守られていると思われたでしょうか。仮に、現在ただいま私たちがおかれている人権状況を「国内人権」と名付けるなら、「国際人権」はどうなっているか、知りたいですよね。国際人権に見られる人権基準と国内人権に見られる人権基準が違っていたらおかしい。だって、“人権において”国籍の違いはないはずですから。本書は、両者に違いがあるのなら、国際人権(基準)を武器として使おう、虐げられた人のために正義を実現しよう、そうした目的にむけて一歩を踏み出すために書かれた本だと思いました。
2 「思いやり」と「人権」は別物だ
第1章「人権とは?」における著者の最初の指摘です。なぜ、「思いやり」と「人権」が別物なのか。それは人権というものが困っている人や弱い人だけの問題ではなく、自分の問題でもあるから。今ここに、児童労働や低賃金労働の深刻な状況があるとします。それは彼らの問題なのでしょうか。自分もそれに間接的に加担してはいないか(←例えば買い物)。人権を「思いやり」としたらそうした自己の加害者性に気づきにくい。また、弱者がするデモやストライキをどこかで、「わがまま」と否定的に捉えてしまいがち。「人権の当事者性」あるいは「当事者意識」、これは極めて重要な指摘だと思いました。
3 スリランカ女性ウィシュマさんの死
「はじめに」で〈正義を実現しよう〉と強い言葉を使ったのはウィシュマさんの事件があったからです。なぜ彼女は死ななければならなかったのか。最大の原因は日本の入管法(「出入国管理及び難民認定法」)が「全件収容主義」を取っているからです。これは退去強制事由に該当する疑いさえあれば、逃亡の危険がなく収容の必要性がない場合であっても収容を可能とするもの。ウィシュマさんの場合はどうであったか。彼女は当時交際していたスリランカ男性からのDVが酷く助けを求めて警察に行った。そのとき、オーバーステイが発覚して2020年8月に名古屋入管に収容。そして、2021年3月6日に死亡。しかし、国際人権基準からすれば、本来入管収容は最終的な手段。現に、イギリスの移民難民審判所のフィリップス判事は次のように語っている。〈「収容は実際に送還手続きを執行するうえで必要な期間のみにとどめるべきであるし、収容と比較してより制限的でないほかの手段によって、その人がどこにいるのかがわかれば、その手段が使われるべきだ」〉(283頁)と。ウィシュマさんの場合、シェルターを活用する方法もあったのだ。さて2007年から2021年の14年間に収容施設で起きた死亡事件は16件、そのうち5人が自殺。それであるのに、日本政府は国連の各種人権機関から是正改善の勧告を再三にわたって受けながら改めようとはしない(その詳細は257頁〜275頁)。著者は、〈悲劇が繰り返されないために、国連人権機関からの勧告に従い、全件収容主義、無期限収容、司法の介入など抜本的な改革が必要だ〉(288頁)と主張する。全くその通りだと思う。
4 現場レポートとしての側面
本書は「国際人権」についての極めて優れた入門書です。しかし、それに止まらない。例えば、「秘密保護法」の成立過程では、著者自身が国連の人権機関である“特別報告者”への通報者になっている。望月衣塑子さんや伊藤詩織さんなども登場。そして、そうした著者の人権救済活動のなかで、上手くいかなくて悩んだり落ち込んだり、また、思わぬところから救いの手が差し伸べられて喜ぶという著者の人間的なさまも書かれています。本書はそうした意味で“読ませる”現場レポートとしての側面も見逃せない。是非とも大勢の方に手に取って頂きたいと思います。 今期一押し、推奨の一冊です。

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2023年03月20日

『変調「日本の古典」講義』

『変調「日本の古典」講義』
【内田樹×安田登 祥伝社 2017年12月第1刷 2018年1月第2刷 全289頁 1600円+税】

1 はじめに
本書の「おわりに」の担当は安田登氏。そこで、氏は、「内田さんの本にはテーマとかそういうものがない。だから、本のタイトルもたいてい当てにならない」、といった趣旨のことを書いてみえます。本書もご多分にもれない。論語も出てくれば古事記も顔を出す、能をめぐる蘊蓄もスゴイ。しかし、それらはとっかかりのようなもので、話題は縦横無尽に行き来します。従って、この本はいわゆる「日本の古典」のうち、いくつかを採りあげ、それを掘り下げた、という本ではない。でもね、面白いんです。読み進むうち、徐々にお二人のペースにはまっていく。刺激されて、いつの間にか読み手も「あらぬこと」を考えるようになる。そんな本なんです。だから、これから書く感想も「あらぬこと」です。内田氏67歳、安田氏61歳のときの対談集。
2 内田氏も安田氏も「変な話」が大好き 
「変な話」ってなに?例えば内田氏は「人馬一体」とは何かを論じる。氏によれば、それは〈馬の力を自分の四肢から発動すること〉(37頁)だというんです。そして、これは馬に限らない。人間は、巨大なエネルギーを発揮するものの”良導体”になって、そのエネルギーを外部に伝達できる技術を習得してきた、そうした存在だというんです。これって、「変な話」だとは思いませんか。ウルトラマンは“変身”するけれど、人間は“変質”する、そんなことを言っている気がするんです。次に安田氏。この方は麻雀をきっかけに甲骨文字と中国古代哲学への関心に目覚めた方と紹介されています。それで氏の専門分野 『論語』の話になるのですが、「四十にして惑わず」という有名な一句がありますよね。ここで氏は孔子の時代には「惑」という文字はまだなかった、「或」という字だった(76頁参照)、というんです。そこから「或」の原義の話になり、「不惑」の解釈変更がなされる。これを「変な話」と言っては語弊があるけれど、「普通の話」ではない。やはり「変な話」だ。
3 何故、「変な話」が好きなのか。
内田氏はこんなことを言っている。〈人間世界の「外」とのかかわり方についての技術知の必要性を現代人はゼロ査定している〉。「この世」の構造を知るためには、〈「この世ならざる視座」に仮想的に身を移す必要がある〉(130〜131頁)と。どういうことか。私は、この部分を、「この世」の内を知るためには、「この世」と「あの世」との境界を想像的にも踏みこえてみる必要がある、そんな風に読みました。それから安田氏です。氏は『あわいの力』(ミシマ社)というご本を書いてみえる。どうも、お二人とも「境界」とか「あわい」という割り切れない部分に興味をお持ちだ。どうしてなのか。ここからは僕の推測になるのですが、お二人ともとことん「合理」を追求するからではないのか。割り切れないところを何とか解明しようとする。そうすると常人とは興味の対象が違ってくる。いきおい「変な話」が好きになる。一種の逆説が生じる。というのが、“「変な話」が好き”についての僕の解釈です。
4 安田登という人のこと
この方の本職は能楽師です。氏を初めて拝見したのは、Eテレ「100分de名著」『平家物語』の講師としてでした。言うまでもなくこの番組で講師として呼ばれるのはその分野で一流の人。ところが(と言っていいのかな?)、威張ったところが少しもない人だ、という印象を持ちました。それは本書でも全く同じ。スゴイ学識なのに面白い話をたくさんしてくれます。どんな人か興味がわいてウィキペディアで見てみたら大学卒業後、千葉県で高校の先生をしてみえた。そして、本書で知って驚いたことがあります。氏は若いころは『論語』が嫌いだった。ところがある本を読んだことがきっかけとなり、もし、『論語』が現代でも有効なら現代の問題を解決できるはずだと考えた。そこで、引きこもりやニートと呼ばれる人たちと、孔子の時代の文字で、『論語』読んでみた、とても有効だった(141〜142頁)というんです。困難な状況にある人に目線を向ける、そして実践する。安田登という人は「良き人」だなと思いました。
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