【内田樹 朝日新聞出版 2023年2月28日 第1刷 全221頁 1600円+税】
1 はじめに
本書は「AERA」(2018年〜2022年)に掲載された内田樹氏の時評的エッセーを一冊の本にまとめたもの。氏は2月21日の公式ツイートで本書をこんな風に紹介。〈『夜明け前(が一番暗い)』〉が本日発売になりました。AERAの巻頭コラムをまとめて103本です。全部字数も文体も同じなので、読みだすと「やめられないとまらない」エビセン状態になります〉と。でもですね、頁をめくる手がはたと止まるときがある、というのは、エッセーとは言いながら100本を超えるものを一気読みすると、そこに書き手の「流儀」といったものが見えてくるからです。そこで今回は、そうして垣間見た内田さんの「流儀」といったものを僕流に解釈して書いてみたいと思います。以下、【 】はコラムの見出し。
2 仲間とともにあるのが人間
内田さんという人は面白い人で何をするにも仲間と一緒です。氏は凱風館という道場兼学塾を主宰されているのですが、ここには、居合・杖道・禊・滝行などの「部活」がある。そして、【72歳「必死の初心者」】では、さらに「乗馬部」を立ち上げたとある。それのみか、凱風館の門人が入る合同墓まで計画し 【死者を弔うのも集団の事業】、現に作ってしまわれた【供養の主体】。勿論、ご自身もそこに入られる。氏は言います。〈生物学的に死んだ後も、人は「死者」というステータスにおいて、しばらくの間生者たちに「存在するとは別の仕方で」影響を与え続ける〉【人類学的真理】と。内田さんにとって、“仲間とともにある”ということはのっぴきならない人間の本質的な属性なのだ。
3 内田樹の流儀
“仲間とともにあるのが人間”、こんな命題を立てて読んだのが、【「文明」と「野蛮」の岐路に立つ】という一稿。論はアメリカの国民的分断の根深さから、オルテガ・イ・ガセットの言葉へと進みます。オルテガ、あの『大衆の反逆』を書いたスペインの哲学者ですよね。内田さんはオルテガをこのように紹介。〈文明的であるというのは、「敵と、それどころか、弱い敵と共存する決意」を宣言することである。理解も共感もしがたい不愉快な隣人との共生に耐えるということである〉(170頁)と。でもですね、そんなことってできるんでしょうか。内田さんはできると考えている。キーワードになるのが氏のよく言われる「原理」と「程度」。言うならば、敵と味方を峻別するものは原理、しかし、もう一つ「程度」がある。「程度」において人間は共生できるのだと。例を挙げるなら、嫌なやつと抱き合うことはできない。でも、握手ならできるかもしれない。握手ができなくても会釈ならできるかもしれない、会釈ができなくても・・・ならできるかもしれない、すなわち、「共生に耐える」と。下手なたとえですがそういうことです。「原理」なのか、「程度」なのか。これを分けて考えるのが内田樹の流儀だと思います。
4 「程度」を語るには「やさしい言葉」
内田さんのものを読むと、「原理」「原理」で押してこないんです。内容は高度、しかし、問題解決のキーワードとなる言葉は「やさしい」。例えば、「正直」「親切」「愉快」「常識」。【デカルトが今の日本を見たら・・・】 では、デカルトに、〈「分別」が足りぬと評することだろう〉(54頁)などと言わせている。「分別」もやさしい日常語ですよね。では、内田さんはどうして「やさしい」言葉を大切にするのか。ここから先は僕の推論です。先ず、「仲間とともにある」のが人間の属性。では、「仲間」であるためには何が必要か。「原理」でしょうか。でも、原理だけだと仲間割れを起こす。最悪、殺し合いになる。なぜなら、「原理」には物事を峻別する力はあっても、和解・譲歩・調和させる力はないから。和解させる力は「程度」の方にこそある。だから仲間であるためには、「程度」がどうしても必要になる。では、「程度」を語るにふさわしい言葉は何か。「原理」を語るだけなら鋭い言葉・難解な語彙でかまわない。しかし、「程度」を語るには、誰でもが理解でき、「それだったら俺にもできそうだ」、という言葉が良い。だから内田さんはキーワードとして「やさしい言葉」を語る。 と、そんな風に考えたのですが、皆さんはどう思われるでしょうか。
