2020年05月29日

『サル化する世界』

【内田 樹 文藝春秋 2020年2月28日第1刷 同年3月31日第3刷1500円+税】

1 はじめに

本書は内田さんの最新のエッセイ集です。内田さんがブログに書いたものと幾つかの媒体に発表した時事エッセイをまとめたもの。

目次から紹介すると、〈T 時間と知性〉
〈U ゆらぐ現代社会〉〈V “この国のかたち”考〉〈W AI時代の教育論〉〈X 人口減少社会のただ中で〉これに加えて堤 未果さんとの対談〈人口減少社会を襲う“ハゲタカ”問題〉の各パートから成っています。例によって(かな)、「僕は内田さんの論考をこんな風に理解した」を書きたいと思います。本書は、1950年生まれの内田さん、69歳のときの刊行。

2 「時間意識と羌族の復讐」26頁〜37頁

(1)「仁」とは何か。

この節で僕が目を引かれたのは内田さんの「仁」の定義についての仮説です。「仁」と言ったら孔子の説いた最高の徳目ですね。言ったら、これをどう解釈するかでその人の思想が分かるというもの。だって、その人が何を最高の価値と考えているか、自ずと知れるからです。内田さんは次のように言います。「仁」とはある種の固定的な徳性を言うのではない、〈過去と未来にリアリティを感じることのできるひろびろとした時間意識〉のことではないかと。孔子が「述べて作らず」と宣言したのは、“私は遅れてやってきたものだ”という「遅れ」の概念を説こうとしたものだと。

 ここで注釈をつけるなら、「述べて作らず」とは、自分は述べるけれどそれは先人が既に語ったことである、自分は創始者ではないということです(僕の解釈)。

 しかし、分かりませんね。私が創始者だと言った方がインパクトがあるのにどうして謙遜するのだろう?そんな風に思いませんか。勿論、謙遜を示しているのではない。内田さんは「遅れ」=時間概念を知ることが人類の知的進化にとって決定的に重要だ、それを孔子は言いたかったんだ、そう言うわけです。そして、春秋戦国時代の人は“時間”というものを知らなかった。その例証として「朝三暮四」「矛盾」「守株待兎」などの説話を挙げます。確かに「朝三暮四」は一日という時間の単位を、「矛盾」は同時性を、「守株待兎」は確率を、春秋戦国時代の人が知らなかったからこそ成り立つ説話です。

単にアホな個人がいたという笑い話ではない(←ここが内田さんの目の付け所としてスゴイとこ)。でも現代人は知ってるじゃないですか時間概念を。内田さんがわざわざ仮説を立てる必要などなかったんじゃないか。この辺を論理的に考えるなら、“いや、現代人も時間を知らない”ということになる。どういうことだろうか。

(2)「自分らしさ」という陥穽(←杉浦)

“現代人も時間を知っているようで知らない”という良い例題はないかとか考えました。

そこで思い浮かんだのは本書の「なんだかよくわからないまえがき」です。そこで内田さんは次のようなことを言っています。 〈「自分探しの旅」とか「自分らしさの探求」というような言葉を僕はこれまでずっと「何だか嫌な感じの言葉だな」と思っていました。それは、そういうことを口にする人間が、しばしば「管理する側」の人間だったからです。〉(5〜6頁)と。 つまり、早く自分というものを規定しなさい、そうすれば君を管理しやすくなるから。そうした企みがそこにはあるというわけです。私も「自分らしさ」とは変な言葉だと思っていました。だって、私は74年生きてきて、「自分らしさ」

なんてことを唯の一度も考えたことはなかったからです。(いつの間にか“僕”が“私”に変わっているけど無視してね。)つまり「自分らしさ」なんてことは必要ではなかった。それなのに、さも必要で大切なことのように言う。だから内田さんの指摘には「納得!」というわけです。閑話休題。さて私は、「男子は三日会わざれば刮目して見よ」とか「君子は器ならず」とか「君子豹変す」という言葉がなぜか好きでした。共通分母は“変化”ですね。それなのに、二十歳になるかならないうちに早々と自己規定してどうするのか。 

この設問を別角度から見れば、「今日の君は昨日の君とは違う。」「明日の君は今日の君とも違う。」「人間は変化する。」「万物は止まらない。」ということですね。ここで内田さん言うところの「仁」が出てくる。「若者よ、ひろびろとした時間意識を持とう。」それが「仁」なのだよ、と。 僕は内田さんの「仁」の仮説をこのように理解しました。

3 「気まずい共存について」93頁〜103頁

この節は民主主義につついて書かれています。内田さんはデモクラシーの定義のうちで一番納得のいくものとして次のオルテガ・イ・ガゼットの一句を紹介します。それは「敵と共生する、反対者とともに統治する」というものです。
さて、オルテガといえば『大衆の反逆』を書いた近代保守思想の泰斗ですね。私は中島岳志さんの本を読んで、保守思想の根底には「人間は誤るもの」という人間観があると知りました。これを知って“保守は最強の思想的態度”と思ったものです。けれど、その中島さんが「人は間違える」の「人」の中には自分も入っているのが保守の要諦と論を進めるに及んで“これは大変だ”と思うようになりました。つまり、他人の意見と自分の意見を等値しなければならない。民主主義に引きつけていえば、反対者の意見と自分の意見をすり合わせ調整しなければならないということです。敵を抹殺してはならず反対者を排除して良いものでもない。即ち「敵と共生する、反対者とともに統治する」れが民主主義だというわけです。これはしんどいことです。「保守」は最強の思想的態度ではあるがしんどさも最強なんですね。

何か、内田さんの本の案内と言うより、自分の言いたいことを言ってしまうことにな
り済みませんでした。本書はどこを読んでも面白いですよ。それは「気まずい共生について」というセンスある小見出しにも表れています。 是非お読み下さい。
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2020年05月15日

『 日 本 辺 境 論 』

『 日 本 辺 境 論 』

[内田 樹 新潮新書 2009年11月20日発行 2010年1月8刷 740円+税]



1 はじめに

『日本辺境論』とは変わったタイトルだとは思いませんか。初めに内田さんがどのように「辺境」を定義しているか見てみたいと思います。

内田さんは次のように言います。〈「辺境」は「中華」の対概念〉〈「辺境」は華夷秩序のコスモロジーの中に置いて初めて意味を持つ概念〉だと。つまり、砕いて言えば、世界の中心である中華皇帝の発する「王化」の光が十分に及ばないところが「辺境」。

具体的に言うなら蕃国すなわち「東夷」「西戎(せいじゅう)」「南蛮」「北狄(ほく
てき)」と呼ばれたところです。

この中華思想から日本を見るとどうか。日本列島は「東夷」の最遠ということになりますから、正しく「辺境」の地です。そして本書が論じるのは、この〈「地政学的辺境性が日本人の思考と行動を規定している」という命題〉なんですね。

では、本書を読んでどんな点に何を思ったのか、それを書こうと思います。

本書は内田さんが59歳のときの著作。



2 「お前の気持ちは分かる」空気で戦争(44頁)

そんな“空気”で戦争をされたらたまりませんよね。戦争は国民の生命・財産に直結する一大事なのですから。だから彼我の国力を比較考量ししっかり考えてやってほしい(やれと言っているわけではありません)。しかし、日中戦争のときの兵站は戦争で
戦争を養うというトンデモナイものだった。アメリカと戦争して勝てるか、なんていう議論が国民的に行われたとは聞いたことがない。みな、空気に支配されてイケイケドンドンになった。問題は何故「空気」なの?という点、私はそこが分からなかった。

さて、ここからは私見を交えて書きます。結論から先に言えば、辺境の地日本に
は、判断に当たっての確たる基準がないというのが私の見かたです。何故、確たる基準がないのか。東の果てに位置する日本は、“受ける一方”という仕方でその精神文化を形成してきた。つまり、文化形成の仕方が“取り込み”なんですね(だから悪いとはならない)。日本人にはオリジナルな“神の意思”もなければ“建国の父の物語”もない。従って、戦争というような一大事になったときにそうした基準に拠り得ない。その帰結として、“受けること”で、“取り込むこと”で決めようとする。つまり、周りを見回して決めることになる。

あえて言うなら、周りの「空気」が基準になるんですね。そして、その「空気」たるや、“神の国、日本は勝つ”といった態のものだった。本書を読んでそんな風に考えました。



3 日本人が日本人でなくなるとき(82頁・88頁)

幕末、日本は上手く近代化を成し遂げたと言われます。日露戦争においても薄氷を踏むがごとくではあったが勝った。ところが大東亜戦争になるとどうか、アメリカに勝てないと分っていながら開戦し、挙句、ひどい負け方をした。この違いはどうして生じたのか。司馬遼太郎を読んだ方なら一度は考えましたよね。私も考えました。同じ日本人だとは思えない。短期間の間にガラリと変わってしまったのか。そんなことはない訳で、その違いは“戦(いくさ)の経験”のあるなしかと思ったものです。つまり、鳥羽伏見の戦いを初戦とする戊辰戦争を経験した者は“勝ち方負け方”を知っていた。そうした経験者が大東亜戦争時には現役としていなかった。だからあんな無謀な戦争をしたのだ、そんな風に理由付けをしていました。しかし、それは違うなと自分で自分の理由付けを否定していたところ、納得のいく理由は本書から得ました。

 それはこういうことです。日露戦争のとき、日本は世界に追いつき追い越せと必死だった。こういうとき日本人は力を発揮する。しかし、いよいよ追いついたと思って世界に範を垂れようとすると途端におかしくなる。日本人が日本人でなくなる。それが日本人だと内田さんは言うわけです。

 確かにそういわれればそうですね。これは内田さんの近著『サル化する世界』に書かれていたことですが、大東亜戦争時、日本にはアメリカに勝ったときのシナリオがなかった。一方、アメリカは『菊と刀』にみられるように早々と日本人を研究していた。勿論、勝ったときの準備です。日本は勝ったときのことを想定しないで戦争をしている。

やはり、世界に範を垂れる柄ではない。

さて、こう結論付けられるとがっかりする向きがあると思います。ところが内田さんは「とことん辺境で行こう」と言う。私の感覚にもぴったり来ます。大体において、日本(人)が力んで何かしようとするとろくなことはない。ということで、「辺境」を逆手に取るところが、この本の、内田さんの良いところなんですね。



4 便所掃除がなぜ修行なのか(14?頁・140頁)

日本人は「追いつけ追い越せ」というとき何故力を発揮するのか。それは日本人の“学び”の特性に理由があるとするのが内田さんです。内田さんはこう言います。〈日本人はこれから学ぶものの適否について事前チェックをしない〉〈私たちは、師弟関係の開始時において、「この人が師として適切であるかどうかについては吟味しない」というルールを採用していた〉と。

 こうした仕方は何かを吸収しようとするとき大変な強みになる。どういうことでしょうか。
何かを学ぶ仕方には二通りあると思います。丸呑みするか、いちいち疑ってかかるかです。

日本人は丸呑みの方法を採用した。けれど、丸呑みにはどうしてもある時ハッとわか
るという契機が必要になる。師匠から便所掃除をやれと言われて黙々とやる(嫌だと言えば
破門です)。これは無意味ではない、ここに何かあると合理化する。つまり必死に求める。
そして、ある時ハッとわかる。これが日本の伝統的な学びの仕方だというのです。逆にいうな
ら効率的だったから伝統になった。

 ここで思い出すのは、司法試験の勉強の仕方です。勉強するはじめ、基本書に書いてあることは間違っていると疑ってかかって読むか、全部真だと思って読むかの二通りがあると先輩から言われた。前者の方法は無理ですね。だって、法律の“ほの字”も分からないのに疑ってかかることなど出来ない。全部真だと丸呑みして読む以外にない訳です。しかし、これが大変です。四六時中、ご飯のときも風呂に入っているときも考えていなければならない。そして、何かの切っ掛けで分からなかった所ががハッと分かる。そうした勉強の仕方を
した者が司法試験に受かっていくというわけです。

 さて、本書に戻って〆に入りたいと思います。日本人は「辺境」にあった。そして
〈外来の知見に無防備に身を拡げることの方が多くの利益をもたらすことをおそらく列島人
の祖先は歴史的経験から習得した〉と内田さんは言います。いや、そのとおりだと思いま
す。

                    ※

本書は「T 日本人は辺境人である」「U 日本人の学びは効率がいい」「V 「機」
の思想」

「W 辺境人は日本語とともに」のパートから成ります。上に書いたのは前二つで
す。後の二つは更に面白い。是非、お読みください。             end
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posted by たっちゃん at 09:58| Comment(0) | 日記

2020年04月22日

100分de名著 大衆の反逆 オルテガ

『100分de名著 大衆の反逆 オルテガ』

【中島岳志 NHKテキスト 2019年2月 524円+税】

  1 はじめに

『大衆の反逆』を書いたホセ・オルテガ・イ・ガセット(1883〜1955)はス
ペインを代表する哲学

者であり思想家です。『大衆の反逆』は1930年、オルテガが47歳のとき、雑誌
に連載したものをまとめ

たものです。

彼は、20世紀初頭のヨーロッパは、「大衆」による「超民主主義」に覆われている
と説き、「寛容=リベラ

ル」「死者の英知による制約」の大切さを訴えました。

     本書の著者、中島さんはこの冊子で、オルテガだけでなく、次の人を取
り上げます。

『フランス革命の省察』を著したエドモンド・バーク(1720〜1797)

『アメリカの民主主義』を著したアレクシス・トクビル(1805〜1859)

『正統とは何か』を著したギルバート・キース・チェスタトン(1874〜193
6)

『大衆への反逆』を著した西部 邁(1939〜2018)

中島さんは、こうした人を取り上げることにより “保守の水脈”を丁寧にたどりま
した。そして、「リベ

ラル」と「保守」がセットの概念であると主張するのです。

さて、この冊子はわずか116頁の短いものです。ところがどうして、保守思想の核
心を理解するうえ

でこれ以上のものはないと思って読みました。

ここで節を改め、保守思想を理解する上でのキイワードとも言うべき「大衆」の概念
について、私なり

の理解を述べてみたいと思います。



2 「大衆」とは何か。私たちは「大衆」になってはいないか。

(1)「大衆」の成立

オルテガは、「トポス」を失った凡庸かつ大量の平均人が「大衆」だと言います。で
は、「トポス」とは

何でしょうか。トポスとは、ギリシャ語で「場所」の意。〈自分が意味ある存在とし
て位置づけられる拠り

所のような場所〉のことです。

近代になり、都市ができ工場が立ち、大量の人間が農村から都市に流入しました。こ
うした人々は、故

郷から切り離されます。切り離されて代替可能な存在になります。

日本でも明治維新以降、田舎から都会への流入が始まりました。高度成長期には、中
学生が“金の卵”と

して東京に集団就職しましたね。こうした背景があって、三橋美智也などに代表され
る望郷歌謡が歌われ

ます。この新しいジャンルは「大衆」歌謡と呼ばれました。

(2)「大衆」は、“皆と同じである”ことを喜ぶ「平均人」

オルテガは、そうした存在が「大衆」だとします。では、何故そのように規定される
のでしょうか。

その理由を考えてみました。ここからは、私なりの理解になります。

まず、トポスを失った人間はどんな心持になるでしょうか。おそらく、心細く不安な
気分に駆られる

と思います。その不安な気分を静めるもの、その心の空白を埋めるものは何でしょう
か。その答えが、

みんなと同じであることを喜ぶ平均人という感性ではないかと思いました。

要するに、不安になれば群れる。群れるとは考え方や感じ方を同じにすることです。
羊として生き

るためには、狼の血が一滴たりとも入ってはならない、そんな風に理解しました。

(3)『大衆の反逆』が書かれた理由

『大衆の反逆』が書かれたのは1930年です。その8年前の1922年には、ムッ
ソリーニ政権が

イタリアで誕生しました。そして、ドイツでもナチスが勢力を拡げました。ファシズ
ムがヨーロッパ中に

広がりつつあったのです。

さて、当時、オルテガがいたスペインは王政国家でした。そのスペインでも1923
年からは軍事独裁

 政権が続いていました。オルテガはマドリード大学で教鞭をとっていたのですが、
そうした情勢下にあっ

 て彼は「リベラルな共和制」を思い描いたのです。そして、それを実現しようとし
ました。政治の世界に

足を踏み入れたのです。そこには、オルテガの人間に対する信頼があったのです。

しかし、彼を待っていたのは想像した以上の「大衆の反逆」でした。オルテガは「大
衆」から徹底的に

迫害されたのです。彼は祖国スペインから亡命せざるを得なかったのです。

そこから、オルテガの「大衆」とは何かという探求が始まり、『大衆の反逆』が書か
れたのです。けれど

も、オルテガの人間に対する信頼は揺らぎませんでした。この点が最も大切なところ
だと思うのです。

→ 中島さんも〈人間への信頼を捨てていないところに、とても共感します〉(16
頁)と述べている。そ

    の時は分からなかったのですが、こうして書いていてハッと分かりました。
そうでなければ民主主義と

いうものは成り立たない。そこで、別の本からですが、オルテガが民主主義(デモク
ラシー)をどのよ

   うに定義したかを紹介しておきます。

デモクラシーとは【敵と共生する、反対者とともに統治する】ということ

    (『サル化する世界』94頁 内田 樹 株式会社 文藝春秋から)

(4)その後の展開

日本の保守思想家 西部 邁は、オルテガの著作に多数者の専制に対する警告を見出し
ました。そして、

   西部によって『大衆への反逆』が書かれたのです。

さて、私たちは気づく必要があると思います。(偉そうな言い方ですみません。)
ムッソリーニにせよ、

     ヒトラーにせよ、そこには大衆の圧倒的な支持があったのです。私たちは
それを当時のニュースフィルム

 等で見ることが出来ます。そうした過去の現実は、私たちに、「大衆」になっては
いないか、の問いを投げ

 かけます。

この問いは、現代のトポスなき社会において、“新たな共同体” “新たな社会的包
摂”をどう創っていくか

の問いだと中島さんは言います。それはどのようなものでしょうか。アメリカの政治
学者パットナム

(1941〜)は、現代を生きる私たちに「ボンディング(結束)」と「ブリッジング
(橋渡し)」という概念

を提唱します。

私たちは、この不安定な世界、世の中において、「保守思想」の果たす役割に注目す
べきだと考えます。

この小冊子は、そうした保守思想への案内として超最適なものです。是非、お読みに
なることをお勧めし

ます。

(今回は固い話になってしまい済みませんでした。) end

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posted by たっちゃん at 21:49| Comment(0) | 日記